筑前琵琶奏者である田中旭泉さん。琵琶の名手というだけでなく、筑前琵琶師範として多くの弟子に稽古をつけています。また、八百津町にある明鏡寺僧侶の妻として仕事をしながら、二児を育てています。
祖父の導きで琵琶の道へ
師匠と出会い、のめり込む
祖父が琵琶の収集家だったので、幼いころから身近に琵琶がありました。京都で育ち、先に琵琶を始めた姉に続いて、6歳から祖父の幼なじみである矢吹旭津美師匠のもとで習い始めます。しかし大学卒業の年、私を琵琶の道に導いてくださった祖父と師匠が他界。とても辛い思いをしましたが、その年の琵琶楽コンクールで最年少優勝を果たし、琵琶の道へと進む決心をしました。
その後、後に人間国宝となられる山崎旭萃師匠の直弟子に。師匠の芸やお人柄の素晴らしさに惹かれ、ますます琵琶の道へのめり込みました。京都では、若い私が琵琶を語るということで多くの演奏のご縁をいただきました。また新聞や雑誌などメディアにも取りあげていただき、琵琶に没頭する日々を送りました。
環境の変化に戸惑い、挫折を経験
葛藤の日々が自身を成長させる
充実した日々でしたが、「芸もまだまだで人間としても未熟なのに、このままでいいのだろうか」と30歳の頃に思い始めます。表現力を豊かにするため、もっと経験を積みたいとも感じていました。そんな時、明鏡寺のお茶会で演奏したご縁により岐阜へ嫁ぐことに。京都から身一つで新天地へ向かうような気持ちでした。
しかし環境の変化に戸惑うことが多く、挫折を感じました。琵琶に没頭していた京都のころとは違い、今までの私の経験が通用しないことも。子育てに、義母の介護、その間に山崎旭萃師は他界。思うように琵琶ができず、葛藤が続きました。そのような中でしたが、「再び琵琶に没頭したい」と心から願い、毎月、東京の山下旭瑞師匠のもとへ四絃の琵琶を習いに通わせていただくことに。
「琵琶がしたい」と打ち明けた私に、夫は何も言わず背中を押してくれました。当時は始発で可児から東京へ向かいました。往きの新幹線では先生のテープを聴いて勉強し、先生のお宅では9時頃から12時まで稽古をつけていただき、帰路へ。帰りの新幹線では稽古の録音を聴いて復習しました。そして、その足で子どもを迎えに保育園へ。いつも多くの人に助けていただいていました。
また京都で稽古がある時は両親にも頼りました。子育てや介護が思うようにいかず泣いてしまうこともありましたが、今振り返ってみますと、その経験が私を育ててくれ、人生の宝となったと感じます。今でも挫折を経験することがありますが、立ち直るのが早くなりました。周囲の人々のおかげです。
自分を忘れる瞬間を見つけて息抜き
日々の暮らしの中に喜びを見出す
公私両立のコツは、スケジュールを工夫してバランスを保つこと。また、多くの皆さまに助けてもらうことも大切、私はありがたいことに周囲の人に恵まれています。そして、自分が周りと一体化して無くなるような瞬間を見つけることで息抜きをしています。
例えば、坐禅やきれいな景色を見たり、良い香りのお香を聞いたりする時などです。山を歩いて四季折々のお花や山菜、ふきのとうなどを摘むことも好きです。お料理も息抜きのひとつで、地元の方々が新鮮なお野菜を届けてくださり幸せを感じます。冬は、煮ても黄色い白菜や、赤色の大根に感動しました。卵にもこだわっていて、黄身が程良く半熟な卵「瓢亭風卵」を作るのに夢中でした。岐阜は穏やかで心安らぎ、いつも感動にあふれています。人が優しく、自然豊かな岐阜の地を心から愛しているんですね。
八百津が琵琶の町と呼ばれるように
演奏家や愛好家を増やしたい
琵琶の魅力は、いにしえに生きた人々の生き様や死に様から学ばせていただけること。琵琶には日本に入ってきて約1300年という歴史があり、奏でていると大きな時の流れの中で自分が生きているのだと実感します。一方で、次世代へ継承するには、たくさんの時間と労力がかかるとも感じます。それでも、琵琶の歴史をつないでいきたいと決意しています。
我が家は娘が13歳、息子が11歳になり、どちらも琵琶の稽古に励んでいます。今年9月にある八百津町演奏会は第10回記念なので、ぜひ親子共演をしたいと思っています。また、師範としての夢は、育てたお弟子さんが一人前になられ、演奏会に招待してくださる日がくること。子育てで成長できるように、お弟子さんにも育てていただいていると、いつも感謝しています。
そして、いつか八百津が琵琶の町と呼ばれるほど、多くの琵琶演奏家や琵琶愛好家が生まれるとうれしいですね。それには私がもっと成長して、師匠としても一人前になる必要があります。「芸は人なり」というように、まずは私自身が一生懸命に生きることを大切にしなければなりません。