20代で高山市清見町に移り住んだ佃眞弓さん。地域住民とのふれ合いの中で、かご編みの技術を身につけ、作家として歩み始めました。40歳でアメリカ留学を経験。美術講師として、かご編みの技術を現地の人々に伝えました。現在は、国内外の展示会に出品するほか、語学力を活かして、外国語講座の講師や通訳案内士としても活躍しています。
40年前に清見町に移住
古老から学んだ伝統技術
木工家を志す夫とともに25歳で清見町に移住。地元の方々に教えていただきながら、がご編みの技術を身につけました。当時は収穫した野菜を入れるかごなど、自身の生活に必要なものを制作。かご作りを生業にすることなど全く頭にありませんでした。
注文を受けてかごをつくり始めたのは、32歳の頃。コンスタントに依頼を受けるようになり、次第に造形的でアートとしても楽しめるかごも作り始めました。
清見町に暮らして40年あまり。日の出とともに目を覚まし、暗くなったら床に就く生活リズムが体に染み付いているので、都会ではもう生活できませんね(笑)。冬の厳しさはいまだに堪えますが、「田舎の人間になってきているなあ」と喜びを実感する日々です。
40歳でアメリカへ
日本文化の素晴らしさを再認識
インターンシップの募集広告を見たことがきっかけで、アメリカへ留学。「あなたが民間大使だったら」という論文を募集しており、優秀者には1年間の留学資格が与えられるものでした。審査の結果、優秀者に選出。かねてから興味があったアメリカ行きが決まりました。
その時、私は40歳。留学のことを当時中学生だった娘たちに伝えると、「お母さんがアメリカに行けば、わたしたちも遊びに行けるね!」と大喜び。夫も留学を応援してくれました。「家族を置いて海外に行くなんて」という周囲の声もありましたが、家族の応援があったから、痛くも痒くもありませんでした。家族の存在は、とてもありがたかったですね。
滞在先は、ペンシルベニア州のエリザベスタウン。日中は、セカンダリースクール(中・高等学校)で美術講師のアシスタントを、夜は一般向けの市民講座でかご編みの講師を務めました。
新たな道を模索して渡米したものの、実感したのは日本の伝統技術の素晴らしさ。かごを編む人なら誰でも知っているような「簣(あじか)」「ばんどり」を編む技術が、こんなにも感動を呼ぶものかと驚きました。当たり前だと思っていた自分の技術に誇りを持てたのは、留学での大きな収穫です。
人との出会いをきっかけに
活動の場をさらに広げる
近年では海外でも展示会をする機会に恵まれ、2017年は韓国とアメリカでの開催が決まっています。
大切なのは、「人と人」。国内外での展示会や技術指導は、これまでの活動で出会った人が縁となって実現しました。これまでベリーズ(中央アメリカ)やネパール、マリ(アフリカ)で、技術指導やアートプログラムに参加。海外では、現地の素材を活かし、自分の技術を押し付けないような指導を心がけています。
2005年にはネパールを訪問。かご作りをしている現地の人々に、新しい編み方やデザインを指導しました。活動を通して生まれた「セージのほうき」や「セラピーバスケット」は、フェアトレードの商品として日本で販売されています。
留学で培った英語力で
英語講師・通訳として活躍
かご作家として活動する一方で、飛騨高山国際協会が開催する市民外国語講座で講師を約20年務めています。2009年、高山市と姉妹都市交流を続けるルーマニア・シビウ市を訪問。ヨーロッパ三大演劇祭の一つに数えられる「シビウ国際演劇祭」では、ルーマニアのアーティストと、日本の評論家をつなぐ通訳を務めました。
昨年からは、地域に密着した案内を行う「高山市中心市街地特例通訳案内士」の認定を受け、外国人観光客向けの有償の通訳も行っています。
高山市には、世界中からたくさんの観光客が訪れています。外国人への対応が消極的だったのはもう過去の話。今では、7カ国語であいさつができる商店主さんもいらっしゃるんですよ。高山市のみなさんはもともと親切な人ばかり。市民一人ひとりが語学力を生かし、まちがさらに発展するといいですね。
子育て中のお母さんには、興味のあることにどんどんチャレンジしてほしい。お母さんが楽しんでいなければ、子どももきっと楽しくないはず。行動しないまま後悔するのは、もったいない。かごづくりの講師として、また外国語講座の講師として、生徒のみなさんが自分の能力を磨き経済的にも自立できるよう、お手伝いしていきたいと思います。