すり鉢の全国シェア6割以上を占める、老舗の有限会社マルホン製陶所に22歳で嫁ぎ、慣れない土地で苦労しながら家業を盛り立ててきた加藤明子さん。周囲に反対されながら絵付けをしたすり鉢を世に送り、「すり鉢は茶色」という常識を一変させた立役者です。生きがいを求め独学で始めた陶芸は、今年で30年目になります。そんな加藤さんにとって、一番大切なものは家族。仏壇に向かって1日の出来事を毎日報告し、孫たちに自分の姿を見せ続けたいと、新たな挑戦を続けています。
何もしなくていいと言われ
窯元に嫁いだものの
何もしなくていいからと、昭和42年に22歳で可児市から土岐市に嫁いできました。しかし、一カ月もしたら「窯に出ろ」といわれ、最初は焼き上がったすり鉢を取り出す作業を担当しました。すり鉢を干す板を担ぐ力仕事も大変で、ほこりの中で働いた経験がなかった私は、「こんなはずじゃなかった」と何度も思いました。
嫁いだ頃は、お祖父さんとお義父さん、お義母さん、夫、夫の弟2人との7人家族。昔は鉢を作っていましたが、先々代が瀬戸で技術を習得してすり鉢を始めました。最初は売れませんでしたが、軌道に乗ると全国津々浦々で売れるようになり、「すり鉢はマルホンでないと駄目」といわれるまでになりました。
大正から昭和初期までは商社の車の列ができて、マルホンのすり鉢を取り合っていたそうです。
茶色という固定観念を打ち破り
絵付けをしたすり鉢を考案
平成2年まではガスのトンネル窯で茶色のすり鉢を焼いていましたが、温度調節ができるガスのシャトル窯に一新する時に、絵付けをしたお洒落なすり鉢が作れるとひらめきました。食材をすったまま食卓に出せば便利ですし、見た目も楽しいという主婦の発想からです。
土を触っている内に焼き物が好きになり、もともと絵を描くことも大好きだったので、山水や桜の絵を自分で描きました。主人からは「そんなの売れん」と言われ、周りからは「こんなのがすり鉢でいいの」と驚かれました。しかし、見本市に出すと大好評で、結婚式の引き出物にも使われるようになったのです。
それからは毎年絵柄を変え、すり鉢に丸みを付けたり、大きさも大中小とバリエーションをもたせたりしました。生活クラブや料理研究家とデザインを考えたすり鉢もあります。絵付けをしたすり鉢が人気になって売れてくると、それまで辛かったのが嘘のように楽しくなってきて、すり鉢が自分の原動力になりました。釉薬の面白さに気づいたのもこの時期です。
今は、蛸唐草(たこからくさ)や十草(とくさ)といった日本古来の模様も絵付けをしています。5色の水玉をあしらったすり鉢は、東京オリンピックの開催が決まったのがうれしくて、イマジネーションを膨らませて作りました。
生きがいを求めて陶芸を開始
日展での入選も果たす
昭和55年から平成2年まで動いていたガスのトンネル窯は全長が52メートル。日曜も稼働していたので、月曜に出勤した人たちが少しでも楽になればいいと思い、その頃はすり鉢の取り出しを日曜に1人で行いました。子どもたちが「お母さん、お菓子持ってきたよ」と来てくれて、近くで遊んでくれたのが励みになりました。仕事に出ると従業員のことを常に考えるので、地場産業の美濃焼を陰で支えているのは、どこも奥さんなんだと思います。
30代の頃は、子どもの分なども合わせ11人分の食事を毎日作りましたが、掃除と洗濯、食事の用意はやって当たり前で、仕事には入らない状態でした。でも、お祖父さんは、最期は孫嫁の私に頼り切っていて、「ありがとう」を何度も言ってくれました。今でも、仏壇で1日の出来事を毎日報告しています。お祖父さんの笑顔と「ありがとう」が、全てを帳消しにしてくれました。
一番下の子どもが中学に行きだした頃から、それまでの忙しさがなくなりました。自分の生きがいもなくなった感じがしたので、趣味で陶芸をやろうと思い立ちました。身近に窯があるし、土もあります。近くでやっている陶芸の研究会をのぞいてアドバイスを全てメモし、色んな人の作品を見て独学で作りました。ぼろくそに言われて泣いたこともあります。陶芸を始めて5年目に土岐市文化祭美術展で最高賞の市展賞を受賞し、日展にも挑戦して6回入選しました。
すりばち館の館長としても活躍
その原動力は大切な家族
「使わなくなっていた木造の作業場を壊す」と主人が言い始めたので、資料館として残したいと頼み、「すりばち館」をオープンさせたのは平成12年でした。主人からは反対されましたが、壊したら終わりです。古い道具の展示のほかに商品の販売もして、作り手と買い手の接点の場にもしたいと説得し、土壁と梁はそのまま残しました。
「思い立ったら、一歩進まなければ始まらない。駄目なら駄目でいい。いいことがあるかもしれない」が、私の座右の銘。すり鉢の仕事とこの土地に馴染むまで辛いことが多かったけれど、「やるだけのことはやったのだから、何を言われてもいい」と思いながらここまで来ました。一年の終わりにうれしかったことと辛かったことをならし、プラスとマイナスでゼロにして、良かったと思うようにしています。
一番大切なのは家族。幸せに過ごしてほしいです。子どもは3人いて、長男が跡を継いでいます。娘2人からは「休んでほしい」と頼まれるけれど、「ばあばは、こう生きてきた」と、孫たちに自分の姿を見せ続けたいから、休むつもりはありません。まだまだ、新しいものに向かって挑戦したいです。