一般財団法人岐阜県身体障害者福祉協会の歴史は、昭和23年、身体障がい者70人余りで結成した岐阜県身体障害者更生同盟から始まりました。2年後、岐阜県身体障害者福祉協会に名称変更。平成25年には、一般財団法人へと移行します。県内の各地域に支部を持っていますが、大垣支部は法人移行せず、任意団体になることを選択。その支部で説田真理さんは勤務しています。自身に上肢障がいがある中、支部事務局へ訪れる身体障がい者を温かく迎え、親身に相談にのっています。
母のサポートに助けられて
英語のおもしろさに目覚める
私は本巣市出身で、生まれつき両腕の上がらない障がいがありました。「健常者と変わらずに子育てをしたい」という母の思いから、高校まで特別支援学校ではなく、一般の学校へ通ったんです。在学中は心ない言動を受ける時もありましたが、家族や友人の支えに励まされながら、多くの知識を吸収していきました。
その後、短期大学へ進学。英語のおもしろさに目覚め、中学校教諭二種免許状(英語)を取得しました。卒業後は縁があって、岐阜市内にある英語の指導塾へ教師として就職しました。体力を要する生徒指導ではなく、後方業務となる教材作りを主に担当。障がい者への理解がある会社だったのですが、残業が続くうちに体調を崩してしまい、退職しました。
多忙な毎日を過ごす中で
出会った身体障害者福祉協会の存在
指導塾を退職した後は、岐阜市内の十六銀行で働き始めました。事務集中センターのオペレーター業に就き、来客者が提出する振込用紙をもとにタイピングする作業を担当。1日に1000件ぐらいを打ち込む時が多々ありました。ほかの仕事も任せてもらえるようになり、毎日とても充実していましたが、自宅と仕事場の往復だけで過ごす日々に段々と物足りなさを感じるようになりました。そんな中、同僚に誘われて一般財団法人岐阜県身体障害者福祉協会の青壮年部に入会。ボウリング大会などのレクリエーション事業や、会員同士の交流事業でもある施設研修へ出席しました。また、「未婚身体障害者のつどい」という結婚相談事業も当時あり、私は数回参加していました。
銀行の所属部署には私と同様に、身体に障がいのある人が複数おり、中には聴覚障がい者もいらっしゃいました。業務をスムーズに進めるうえで手話を自然に覚えていき、手話奉仕員の資格を取得できるまでに上達しました。
さまざまな悩みを抱える
障がい者と交流を深める
手話奉仕員の資格は、現在の仕事に携わるきっかけとなりました。岐阜県身体障害者福祉協会大垣支部事務局で働いていた手話のできる職員が辞めてしまい、私に声がかかりました。十六銀行を平成13年に退行し、翌年、大垣支部事務局に採用。週2日のペースで勤め始めました。
現在は月曜日から土曜日まで、来訪者の相談にのっています。上肢や下肢が不自由だったり、聴覚や視覚に障がいがあったりするなど、相談者はさまざまです。中には、事故が原因で車イス生活を送ることになった人もいました。突然の事態に打ちひしがれ、暗い顔で支部事務局へ訪れましたが、私の生い立ちなども交えて話し合っていると、徐々に明るさを取り戻し、笑顔を見せてくれたんです。そんな時、この仕事に就いて良かったなと感じます。今後も、色々な方の相談にのっていきたいです。
家族と公的支援を支えに生活
誰もが障がいを気に留めず暮らせる社会を願う
結婚して今年で19年目を迎え、一人娘は4月から高校生。主人も障がい者で、娘も足に障がいがありますが、二人とも積極的に家事を協力してくれています。週3日は、ホームヘルパーから自宅でサービスを受けています。
住んでいる地区の自治会の班長や、中学校のPTA役員をしないかと声をかけられた時、障がいを理由に断らないようにしてきました。自分でできる範囲のことはしていますが、地域の皆さんには助けられる時が多いですね。私の父から教えてもらった「受けた恩は石に刻み、かけた情けは水に流す」という言葉は、そんな時に思い出します。何かをしてもらった時は忘れず、深く感謝するようにしています。
近年、「バリアフリー」という言葉が頻繁に使われるようになりましたが、そんな言葉が存在するうちは本当のフリーではないんです。だれもが障がいを気に留めず暮らせる社会になるのを願っています。そのためには、自分のできることとできないことを声に出して外へ発信する障がい者の人数が増えていってほしいです。