名古屋市出身の本間希代子さんは、伯母が画家、父は看板店という、絵を生業とする家系に生まれ育ちました。名古屋芸術大学を卒業後は、都会を離れて暮らしてみたいと思い立ち、岐阜県森林山村文化研究員に応募。中津川市加子母へ派遣されてその魅力を知り、移住を決意しました。現在加子母のまちには、本間さんのイラストがあちらこちらで見られます。
知らない土地で暮らしてみたい
森の交流大使として加子母へ
子ども時代は足が遅くて運動嫌いでしたね。伯母のお絵かき教室に通っていて、絵を描いていると静かな子だったそうです。伯母は椅子に座る女性を描いた油絵が代表作で、私が中学生ぐらいになると「骨を見たい」といい、よく椅子に座らせてモデルにしました。
そんな少し風変わりな芸術家である伯母の存在が身近すぎたのか、物心ついたときには、「なれないわけがないじゃん!」と思っていたほど、画家という職業は身近でした。当然のように画家を志し、名古屋芸術大学に進学、卒業。その後、名古屋を離れて知らない土地で暮らしてみたいと考え、1997年に岐阜県森林山村文化研究員「森の交流大使」に応募したのです。その派遣先が、現在暮らしている加子母でした。
山、人、古来より受け継がれた伝統
美しい加子母に魅了されて移住
森の交流大使は役場に籍を置き、任期は2年間。外部から来た交流大使の視点で新しい魅力や資源を掘り起こし、村人たちに自信や誇りを持ってもらうのが目的でした。
上司からは「何でもいいからやってみろ」と言われ、私は空き家でのイベントを企画開催するなど、空き家再生に注力。広報誌の取材、原稿書きにも携わりました。取材先ではみんな親切で、村外から来た私にもとても優しく、心地よかったですね。
交流大使の活動を通して、私の価値観はすっかり変わりました。それまでは、仕事を極めたプロフェッショナルな人たちがかっこいいと思っていたんです。でも加子母の人々はオールマイティー。仕事をしながら自分の土地の山を健全に保ち、畑や田んぼを守っている。山間で暮らす人は生活力が高くて、何でも全部できるんだなと感じました。それがすごくかっこいい、と思うようになりましたね。
加えて加子母は神事を大切にする地域で、10地区ごとに春夏秋冬、祭りや行事が絶え間なくあるんです。子どものころからの経験で、みんな笛も吹ければ、太鼓も叩けるし、地歌舞伎の役者もできる。加子母には明治座という地歌舞伎の芝居小屋が現存し、毎年9月に定期公演が開催されます。交流大使で派遣された年に、私も参加を促されました。「小道具作りでもやるか」と出かけると、なんといきなり役がついていてびっくり。演劇経験のない私でしたが、やる・やらないの選択の余地はなく、いきなり出演しました。それから毎年夏は、練習で歌舞伎づけです。現在放送中のNHK大河ドラマで注目が集まっている明智光秀の妹・桔梗役なども演じました。
加子母はこうした特有の文化が、地域の人々により守り受け継がれている希少なまち。大切に継承されている美しいものがいっぱい目にできて、触れられる点に魅了されました。
加子母のあちらこちらに
作成したイラストが点在
交流大使の任期満了後は、学校給食の調理員などしながらイラストや絵を描き続け、気づけば20余年が経ちました。以前は歯科医院だった家屋を、アトリエ兼住まいにしています。
現在、地元の広報誌「かしも通信」の副編集長と表紙のイラストを担当。加子母はアーティストのIターンが多く、移住者や仲間の活動をコラムに綴るフリーペーパー「ぶらんこ」の発行人も務めます。
加子母の特産品であるトマトを使ったジュースや、カレーのパッケージ、加子母のマップなど、まちのあちらこちらで私のイラストを起用してもらっています。年に2、3回は県内や名古屋などで個展やグループ展に出展。10 年前にチェンバロ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、胡弓奏者である夫(渡辺敏晴)と結婚し、夫と個展&チェンバロコンサートも開催しています。
日々の暮らしのなかで
感じたことを描き続けたい
30歳を過ぎた頃から絵本作りに挑戦。現在9歳になる娘が生まれ、読み聞かせをするようになって絵本作りがますます面白くなり、もっと描きたいと思うようになりました。
これまでに、2016年の春に行われた明治座の平成の大改修に合わせて発行した「むらのしばいごや 明治座さーん」、第9回武井武雄記念日本童画大賞2018絵本部門に入選した「おやまのおさくらまつり」といった作品を手がけました。描いたのは、加子母のことや日常の景色。保育園の送迎バスの添乗員や、独居老人の弁当作りをするボランティア活動にも参加するなどして、地域にどっぷりと関わると、絵本やイラストのアイデアが浮かんでくるんです。
いまは絵を描いていてとても幸せですね。これからも加子母の暮らしのなかで感じたものを、絵や絵本にして描き続けていきたいと思っています。