2020年4月、岐阜大学では初めてふたりの女性部長が誕生しました。そのひとりが野々村晴子さんです。学務部長に就任した数日後、学内で新型コロナウイルスの感染者が出て、突然に休校が決まりました。以降、前例のないコロナ禍における、安心な学生生活と教育の提供に向けて、多忙な1年を過ごしてきました。
国家公務員試験を受けて大学職員へ上司の勧めでキャリアアップを
大学在学中、体を壊しまして、家に戻りました。大学もやめる形になり、今後どうしようかと考え、公務員の試験を受けました。当時、国立大学の職員は国家公務員で、岐阜大学に採用が決まりました。実は公務員になろうとしただけで、大学職員がどんな仕事をしているかは、あまり気にしていませんでした。家が近かったこともあり、ありがたい巡り合わせでここに就職できたという感じです。
勤めて27年になる頃、上司から「東海北陸地区の課長登用試験を受けてみませんか」という誘いをもらいました。当時は係長でしたが、普通はその後に課長補佐を経て課長になります。その試験を受けると課長補佐をとばして、いきなり課長になれます。
ただ、そうすると慣れ親しんだ岐阜大学を離れて、東海北陸地区のどこかへ異動となります。迷いましたが、大学の中にいるだけでは、あまり成長しないのではと思っていましたし、優秀な上司の方々を見ていましたので、自分も頑張ってみようと決心しました。
課長職として三重大学に勤務した後、土岐市の核融合科学研究所に異動しました。研究所では大きな国際会議に携わる経験も積みました。
2017年に岐阜大学に戻り、国際企画調整役というポストに就きました。課長職ですが、上に部長がいなくて、事務方をまとめて組織を運営していく役目でした。2019年10月、リトアニア大統領が本学で講演を行った際には、講演に係る業務を担当させていただきました。そして2020年4月、学務部長に就任しました。就任後も国際事業課が単独の組織から学務部の組織に組み込まれることになり、引き続き携わることになりました。
学務部は学生にとって一番近く
大学の根幹となる教育に携わる部署
学務部の仕事は多岐にわたります。部内には5つの課があって、引き続き携わることになった国際事業課、大学の教育に関する企画立案や運営を担う教務課、奨学金や授業料免除などを扱う学生支援課、入試関係のさまざまな業務を行う入試課、教養教育や新組織である「社会システム経営学環」の業務を行う全学連携教育課があります。
教育という大学の根幹をなす仕事全般を見るのが学務部で、学生さんにとってもっとも近しい場所と言えます。部長という立場ですから直接関わることはないものの、大勢の学生さんを支えるための仕事をしている、やりがいを感じています。
新型コロナウイルス感染症の予防と大学教育の両立を模索して
部長に就任して3日くらい経ったときでした。学内に新型コロナの感染者が出たために大学を閉鎖します、と言われました。その準備をするよう要請が入り、そこから怒濤のごとく対応に追われる日々が始まりました。
大学を閉鎖するのなら授業をどうするか。学生証を渡さなくてはいけないし、履修登録も出してもらわなくてはいけない。先生たちにはeラーニングの準備をお願いしなくてはいけない。本当にやることばかりでした。
前例がありませんので、何が正しいのか、判断材料が不足していました。正反対のご意見もあり、たとえば授業をやる、やらないと両極端の意見を同時に寄せられ、それを決めていくのが非常に難しかったです。後期に入っても、状況は次々と変わっていき、関係者で話し合いながら、一番いい方法をひたすら模索していました。
物事を決める立場ですので、それが正しかったかどうか、常に反省しています。あまり引きずることはしないようにしていますが、もう少し何とかなったのでは、と思うことは多いです。さまざまな対策を講じる中、学生のみなさんは真面目にルールを守ってくれて、本当に感謝しています。
私自身も学びを続けながらこれからもいい仕事をしていきたい
休日は美術館によく足を運びます。東京や大阪、京都などにも美術展を見に出かけています。特に習い事はしていませんが、ずっと放送大学の授業をとり続けていて、一昨年、卒論を提出して卒業しました。その後も2科目くらいずつ勉強しています。まだ学びたい事が多く、これからも続けていくつもりです。
部長になるのが目標であり、挑戦でした。それが叶ってしまいました。まだ定年まで時間がありますので、いい仕事をどんどんしていきたいな、と思っています。定年は60歳ですが、それ以後も働いている先輩方が多くいらっしゃいます。特にポストにはこだわっていません。面白い仕事があればやっていきたいです。ずっと働き続けることが、新たな目標となりました。