江戸時代に始まり、現在でも日本最大の生産地として岐阜県郷土工芸品に指定されている和傘。分業制でその技を守り継いできたなか、仕上げの工程をほぼ一人で手掛けているのが髙橋和傘店の田中美紀さんです。日差しに透かして和紙ならではの色や風合いが楽しめる網代日傘をはじめ、一児の母として子育てをしながら、女性の感性を活かした新たな和傘作りに取り組んでいます。職人が減り、材料も入手困難に陥りつつある現状を踏まえ、一般社団法人岐阜和傘協会理事の一員として人材育成や材料確保にも力を入れています。
岐阜の魅力を調べ
たどり着いた和傘職人の道
大学は外国語学部で、ものづくりとは全く関係のない進路を歩んでいました。外国語を学んでいると、実際に海外へ行きたくなるもの。旅先で印象的だったのは、「私たちの国はこんなところがすごいんだぞ」と愛情をもって自国について語る外国人の姿で、自分にはない意識を羨ましく感じたんです。
けれど私は、日本について何か自慢できるほどの知識を持っていませんでした。そこから、外国語についてよりもまず、日本について学ばなきゃという思いを持つようになったんです。
岐阜で生まれ育ってきましたから、岐阜のもので何かと考えたとき、思いついたのが美濃和紙。和紙の色や柄の違いを眺めるのがもともと好きで、和紙を使った工芸品のリサーチから始めました。長良川流域では和傘とうちわと提灯が作られていて、最初に見学したのが和傘でした。
生まれて初めて実物を触らせてもらって、傘を開いた瞬間飛び込んできた和紙の美しさに、思わず目を奪われました。黙々と作業する職人の姿もかっこよく、どんな携わり方でもいいから和傘に関わりたいと見学先に頼み込みました。それが、和傘の老舗問屋である坂井田永吉本店さんです。
社長さんからは、「雇えないし、給料も払えないから」と最初は断られました。それでもしつこく食い下がって、諦めずに足を運ぶうち、私の熱意に折れてくれたんです。両親からの理解は得られなかったため、家を出て一人暮らしのために他にもアルバイトをかけもちしながら、坂井田永吉本店さんに通い始めました。
岐阜県歴史博物館で見た展示品から
ヒントを得た網代日傘
和傘作りは100以上の工程があり、傘の骨を作る「骨師」、紙を張る「張り師」、油と漆を塗る「仕上げ師」など、専門の職人による分業制で成り立っています。坂井田永吉本店さんはあくまで問屋ですから、実際に制作している職人さんたちのもとへは、なかなかたどり着けませんでした。例えば、紙を張る作業を教えてもらうまでにかかったのは5年。もっと知りたい、どんどん吸収したいという気持ちとは裏腹に、いつになったら教えてもらえるんだろうという悩みを抱えていました。
しかし、高齢化で職人たちがまた一人また一人と仕事を辞めていく状況に、業界が若手を育成しなければと危機感を持ったことが追い風になりました。そうして地道に教わって約10年、家庭を持つタイミングで自分の工房を構えました。
和傘は作家性があるものと、需要が決まっているものと、大きく二つに分けられます。需要が決まっているものは、舞妓や芸妓、旅館、神社仏閣などが主な購入先です。当時和傘を売ってくれるところといえば東京と京都しかなく、子育てもあって決まった注文をこなしていました。
個性を出した製品に挑戦し始めることができたのは2018年、岐阜和傘のセレクトショップ、和傘CASAがオープンしたから。作りたいものを作って、それを安心して売ってもらえる場所ができたおかげで、和とも洋ともつなかない、どんなシチュエーションにも合う製品を手掛けるようになりました。手作りならではのこの世に二つとない1点ものですから、気に入ってくださった方は「この機会を逃したら二度と出会えない!」と、購入してくれているようです。
令和元年度に「ぎふ女のすぐれもの」認定を受けた網代日傘も挑戦の一つ。網代日傘に出会ったのは、岐阜市歴史博物館です。明治から昭和のいろいろな傘が展示されている中で心惹かれて、いつか自分の手で復活させたいと、ずっと案を温めていました。
網代日傘は軒の表情が特長。軒糸2本が交差して、フリルのようにも見える特殊な張り方をしています。かつては黒塗りが当たり前だった日傘に、透け感を意識した淡い色の和紙を用い、持ち手はサクラの木を使い涼やかにしました。傘骨の補強をする糸かがりは、手まりや花をイメージしたオリジナルです。日傘なら年中使えますし、メンテナンスも必要ありません。これまで和傘を使ったことがない人にもおすすめです。
子育て中の隙間時間を活用し
仕事と家庭を両立する
すべての工程が手作業ですから、1本作るのに1カ月~1カ月半を要します。天日に干すなど、天候に左右される作業もあり、納期が決まっているときに悪天候が続くと本当につらいです。今では両親も仕事を認めて応援してくれていて、天日干しする間、急な雨や風に注意する作業は、両親が手伝ってくれています。
子どもが登園している間に仕事を進めて、子どもが寝た後などのわずかな時間にも作業を進めています。妊娠中は出産ぎりぎりまで仕事していましたし、出産から3カ月後には復帰していました。年を取ってからも自宅で続けられますから、この仕事を選んでよかったと思っています。
いま和傘業界は職人がどんどん減りつつあり、この状況を安定させるのが使命だと感じています。そう思えるようになったのは、子どもが生まれたから。子どもたちに岐阜が誇る和傘文化を繋げていきたいと思ったからです。
和傘作りの職人に関しては、一般社団法人岐阜和傘協会の仲間とクラウドファンディングで資金を募り、主要部品であるろくろと骨を作る職人を3年間で育成するプロジェクトを始めています。また、岐阜県立森林文化アカデミーと協力し、ろくろの原料となるエゴノキを調達する活動も進めています。
和傘作りに終わりはない
作れば作るほど奥深さに感動
趣味ではなく仕事である以上、どうしてもお金が絡んでくるので、和傘への純粋な愛情だけでは成り立ちません。それでも和傘を美しいと思う瞬間は変わらないし、良いものができたときは嬉しく思います。
「こういう和傘、作れませんか?」と相談をもちかけられると、どうにかして叶えたいとモチベーションが湧いてきます。イタリアの自動車メーカー、FIATとのコラボレーションも、先方からもちかけられたもの。トリコローレカラーを希望された案を、形にしました。
和傘作りに終わりはなく、使う素材や作り方一つで何通りもパターンができます。自分の中だけで完結させるのもいいですが、色々な人との化学変化で面白いものが完成できればいいです。
土地に対して愛着を持ちたいと思って入った業界ですから、和傘といえば岐阜と言われるくらいにしたい。「岐阜には和傘があるんだよ」と、地域の人がまちの自慢として胸を張れるようになるのが夢です。