岐阜で活躍する女性の紹介
〜岐阜で活躍する女性からあなたへのメッセージ〜

「好き」を仕事にして
今年で50年
大変なときも
「好き」を支えに
乗り越えてきた


イラストレーター
中山 尚子(なかやま ひさこ)さん(瑞浪市)

【2025年10月 6日更新】

有名作家の小説の装画、雑誌の挿絵などを手がける中山尚子さんは、恵那市の出身。現在は瑞浪市を拠点に活動を続けています。クリスマスシーズンに心が躍るカラフルな洋菓子メーカー「モロゾフ」のパッケージは中山さんが手掛けたもの。1998年から描き始め、今年で28年を迎えます。

絵を描くことが好き
幼い頃から絵を描くのがとても好きな子どもでした。母曰く、お小遣いをもらって駄菓子屋さんで買うのは、お菓子ではなくわら半紙だったといいます。勉強やスポーツは不得意だったけれど、絵を描くことだけは得意。小学生の頃は選挙啓発や環境美化のポスターコンクールに応募すれば、ほぼ受賞していました。
高校は恵那農業高等学校に進学。生活科(当時)で洋裁や料理などを学んでいましたが、全く面白くありませんでした。そんな中、通信制のアートスクールを雑誌の広告で見かけ、高校に行きながら通信でデザインを学び始めました。
高校卒業後はデザインの道へ進もうと、親戚のつてを頼ってデザイン会社を紹介してもらいましたが、専門的に学んでいない高校生など、誰も相手にしてくれませんでした。がくりと肩を落としていると、インターシップ先を紹介してくれることに。インターシップ期間は1カ月。最終日に「あなたはちゃんと学んだら、伸びる可能性がある。学校へ行きなさい」とアドバイスをいただき、親に頼み込んで、専門学校へ入学させてもらうことになりました。
寝られない日が続くほど課題提出に終われ、学校生活は過酷でした。ついていけない子もでてきて生徒数は半分以下に。それでも学べることが本当にうれしくて、トップの成績を収めることができました。

プロの厳しさを知る
専門学校卒業後は名古屋市内のデザイン会社に就職しました。一番初めに任された仕事は、とある企業のロゴ制作。自信を持って仕上げた作品は上司からことごとく却下されました。何度作り直してもなかなかOKがもらえない。見るに見かねた先輩が手掛けた作品は、短時間で仕上がりが美しいもの。「プロの厳しさ」を教えられ、いくら学生時代にトップをとったからといって、社会では通用しないことを痛感しました。いい仕事になるのも悪い仕事になるのも、クリエイターの熱意次第。情熱を持って仕事に向き合う大切さも、教えてもらいました。

イラストレーターへ
25歳でフリーに転身後、しばらくは広告などを制作していました。転機となったのは、清里でペンションを始めた友人に頼まれ、清里の風景に小動物を隠したトリックアートの絵葉書をつくったこと。作品は、日本グラフィックデザイン協会が発行する年鑑『Graphic Design in Japan』の選考に通過し入選。多くの人の目に留まったことで、雑誌の挿絵や企業のカレンダー制作の仕事が増えました。装画の仕事も増え、ミステリー小説の装画は200点ほど手がけています。
長きにわたって続けているのが洋菓子メーカー「モロゾフ」のクリスマスパッケージのデザインです。毎年15種類の商品が発売されるのですが毎年すべてを新しく描いているのではなく、使い続けているものも。毎年変わるのは、クリスマスまでの日数をカウントダウンする「アドベントカレンダー」です。クリスマスをテーマにクライアントから提案を受けながら好きなものをデザインしていますが、孫ができてからは、作風が少しかわいくなったような気がしています。
現在は子どもが手を離れていますが、子育て期は仕事が多忙で大変でした。0歳児から預かってくれるような保育園は当時まだなく、母や2人の姉が子育ての強力な助っ人となってくれました。母の家ではミシン台を、姉の家では食卓や子どもの勉強机を借りて、イラストを描いていました。本当に大変でしたが、「この仕事が好き!」というパワーで乗り越えることができました。

健康のために50歳で水泳デビュー
夫が園芸業を営んでおり、繁忙期にあたる3~5月は仕事を手伝います。余剰生産された苗を捨てるのはもったいないとプランターに植え始めたのがきっかけでガーデニングが趣味になりました。
もうひとつの趣味は、スイミングです。肩こりに悩み始めた50歳から始めました。最初は全く泳げなかったのですが、今では週1回1km泳ぐことを習慣としています。身体もほぐれますし、風邪もひきにくくなりました。
イラストレーターの活動と並行して、保護司のボランティアもしています。近年、保護司の担い手が減っていますが、大切な役割だと感じています。