主に道路のセンターラインや制限速度の数字など、路面標示を手掛ける岐阜市のアース・クリエイト有限会社に勤務する川嶋ひとみさんは、高校までバドミントンの選手として活躍していました。今は子どもの頃に通っていた地元のクラブチームで、コーチとして小中学生にバドミントンを教えています。
ヘルメットを被って現場にも出る
高校卒業後、航空機関連の工場に就職しました。製品のチェックをする品質管理の仕事をしていましたが、コロナ禍で航空業界が大きな打撃を受け、将来に不安を感じて転職を考えるようになりました。バドミントンのコーチ仲間に相談して今の会社を紹介してもらい、お話を伺って経営理念や経営方針、創業者の熱い思いが引き継がれている点などに感銘を受け、この会社に入りたいと思いました。後日改めて行われた面接で採用して頂き、総合職として現在の総務部に配属となりました。
女性ばかりの部署で事務仕事が中心でしたが、作業補助として現場に行くこともありました。入社して3年目の夏、男性ばかりの工事管理部に異動になりました。官公庁への営業から工事書類作成、現場の管理や作業まで、女性だからと特別扱いされないよう何でもやるようにしています。
昨年の3月には建設業経理士検定試験にも合格しました。バドミントンのコーチに行くために勤務時間をずらしてもらうなど会社には配慮を頂いていたので、業務にもプラスになる資格に挑戦してみました。3カ月間、業務時間外や休日に過去問を解きまくり、高校時代に勉強してきた商業簿記の知識と経験も活かして合格する事ができました。
バドミントンに打ち込んだ10代
バドミントンを始めたのは小学校4年生のときです。あまり覚えていないのですが自分からやりたいと言い出したと聞いています。父は実業団までバドミントンを続けた選手でした。指導が厳しく怖かったため、始めは嫌々やっていた記憶があります。地元のクラブチームの練習だけでは足りないからと、父が家のガレージにネットを張り自主練習もしていました。
中学の部活もバドミントン部に入り、クラブチームも続けながら、父のアドバイスでクラブ以外でも練習していました。その頃の成績は小学校・中学校で1回ずつ、団体戦で全国大会に出場しましたが、まだ自分は主力選手ではありませんでした。
高校は父の母校でもあるバドミントンの強豪校に進学し、今度は主力選手として団体戦では毎年全国大会に、個人戦では3年生のときに県で2位になりインターハイにも出場しました。進路を決める際には顧問の先生から実業団も打診されましたが、自分では全てやり切ったという思いがあったので卒業後は就職する道を選びました。
可能性を育てる
就職先は学校の就職指導に従って決めました。バドミントンに関しては、自分が所属していたクラブチームで、今度はコーチとして子どもたちの指導を始めました。自分を育ててくれたチームに恩返しがしたいという気持ちがあったのと、ある程度できあがった選手よりこれから伸びる子どもたちを育てたいと思い、就職を選んだときから決めていました。父は選手を続けて欲しかったのかも知れませんが、コーチになることも応援してくれています。
岐阜は、有力選手が所属するチームを企業が支援するなど、バドミントンが盛んになってきています。私が中学の頃一緒に練習していた友人も、日本代表選手が参加する実業団のトップカテゴリーで活躍していて、自分のことのように誇らしく思います。
子どもの未来と私の未来
平日は仕事が終わってから駆け付けるので、練習の最後の方しか指導できませんが、土日はフルに参加しています。子どもたちの練習や大会はもちろん、自分も選手としてローカルの大会などに月1回のペースで出場を続けています。
最近はチームのオーナーから後継者についてのお話も頂きました。いつかは自分がこのチームを率いて選手の指導や競技の普及に関われたら、岐阜から世界に通用する選手を送り出せたら、そんなことを思っています。


