山の中という過酷な環境で仕事をする林業。力仕事や高所での作業もあり、女性の参入は珍しいというイメージがあります。しかし、寺田菜穂子さんは、森が大好きで自らの手で山を手掛けたいという思いから、大学を卒業後すぐ林業に従事。常に山へ足を運び、岐阜の山を守り続けています。
農学部森林科学科に入学
大阪府で生まれ、高校生まで大阪の街中で育ちました。道路と駅ばかりで、空気や川が汚染されている環境でした。少しだけあった田んぼなどの遊び場が、住宅地に開発されていく幼少期を過ごしました。季節の変わり目は持病の喘息の症状がひどくなり、学校を何日も休むほどでした。環境問題についてはずっと関心がありました。高校生のときにニュージーランドへ留学したのですが、自然の素晴らしさに感激し、環境汚染をなくす仕事をしたいと思うようになりました。そして、信州大学農学部森林科学科に入学しました。
大学では、本当にいろいろな出会いがありました。特に印象深いのが、学生だけれど 1 年間休学してキコリをしていた先輩です。すごくカッコよくて憧れでした。私も山をつくれるようになりたいと強く思いましたね。
女性初の森林組合現場作業員として奮闘
大学を卒業後は、長野県の上伊那森林組合に入社しました。とにかく山の中で仕事をしたかったので、事務職ではなく現場作業班に配属してもらいました。でも、上伊那森林組合として初めての女性作業員だったため気を遣われ、逆にそれが負担になることもありました。思い返せば、自分自身が「女だからってバカにされないように」と意地になっていたこともあったと思います。生理について親方に相談したときは、恥ずかそうにしながらも親身に話を聞いてくれました。同僚や先輩もすごく理解がありました。人に恵まれていたんですね。
徐々に体力や技術が身につくと、周りが認めてくれるようになりました。そして、男性と張り合わなくても自分のできることややりたいことをやろうという考えに変わっていき、肩の力が抜けた気がします。
仕事は山のコーディネーター
現場での技術がついてきた頃、森林組合を退職し、山の計画を立てることから携わるプランナーとして独立しました。個人事業主として 2 年ほど山仕事を請け負いました。32歳になり、子どもを産みたいと思い、夫の住む岐阜市に引っ越ししました。転居してからは、美濃市の NPO 法人杣の杜学舎でプランナーとして林業に携わったり、森の幼稚園のスタッフとして働いたり、岐阜大学でアシスタントとして務めたりしました。そして現在は、公益社団法人岐阜県森林公社で森林施業プランナーとして仕事をしています。
仕事内容は、森林所有者と森林をつなぐこと。役割はとても幅広く、森林の計画を立てる、県や市町村の担当者と打ち合わせ、所有者へ報告、技術の指示など、さまざまな業務があります。森林の計画を立てるために大事なことは、将来どのような森林にするかという目標を立てることです。木を生産するための山、災害に強い山、広葉樹の山など、山によって違います。山林所有者の9 割が山への関心が薄く、山離れが加速している中で、所有者と話をしながらいい山づくりをしていくのが私の仕事です。
目標は技術を活かした国際貢献
計画を立てるために山を歩き回ることが多いのですが、毎回変化があってすごく楽しいです。雨の日の音やにおいも好きで、ワクワクします。森林の仕事以外考えられません。一生、山の仕事をしていたい。
夢は、退職後に自分の技術を活かして海外で働くことです。山は恵みをもたらしてくれるものなんですよね。山が重荷になってしまうのではなく、山を持っていてよかったと思ってもらえるようにしたいです。座右の銘は、"step out of my comfort zone"です。自分の快適な場所から一歩外へ踏み出して、難題にも向かっていきたいと思っています。




























